今回は 「インプットの機会に恵まれすぎて、結果 振り回されてしまう悲しい人」 の話をします。
※その悲しい人とは言うまでもなく過去の自分(まだ片足を突っ込んでいる)
スマートフォンとみんな
・みなさんは毎日スマートフォンを触りますか?
今の世の中、きっと触らない人の方が少ないですよね。
総務省が公開している「情報通信機器の世帯保有率の推移」からも見て取れます。
・どんなアプリケーションを立ち上げることが多いですか?
Instagram / Twitter / YouTube などなどSNS的な要素が濃いものを開く比率は多くないでしょうか。
こちらMMD研究所というモバイル専門のマーケティングリサーチ会社による記事でも、どうやらそのような結果が出ているようでした。

・ちょっとしたスキマ時間に、SNSやニュースアプリをよく見ていませんか?
ぼくは結構見ていました。
というか今でもちょくちょく見ます。
そのこと自体は悪いことではなく、むしろ自分一人では知りえなかった価値観に触れられるので「適度な閲覧」はプラスだと思います。
ただ問題なのはそれに
①依存してしまうこと
②影響され過ぎてしまうこと
③実践しようとはするものの、そのままにしてしまうこと
だとぼくは考えます。
① は巷でもよく言われているので言及は割愛。
② はいろんな価値観に触れすぎるがあまり、自分の軸を見失ってしまう。
自分の人生なのに結局何がしたいのか迷子になってしまうことは悲しいなというお話しです。
ただ、ぼく個人としてはあまり価値観の押し付けはしたくないので、これは過去の自分に対しての戒めですね。。
今でもたまに迷子になっちゃうんですよね実は。
積もり積もっていく情報やノウハウたち
「実践しようとはするものの、そのままにしてしまうこと」とはどういうこと?
そして、なんでネガティブなの?という話を具体例を織り交ぜながらしていきましょう。
みなさんは「Twitterのお気に入り機能(通称:ファボ)」「気に入ったニュース記事やブログなどをPocket / Evernote などに保存」こういったことを頻繁にされますか?
そしてそれを見返したり、実生活に取り入れることをしていますか?
ぼくはぶっちゃけ月に1度か2度くらいしか掘り起こしませんし、自分のお気に入りやノートもどんどんたまっていく一方です。
…備忘録としてため込んでいくのはいいですが、それって自分の糧に成り得るのでしょうか。
むしろ積もり積もっていく情報たちを、ふとした時に見返すとちょっとうんざりしませんか?
「こんなに色々あっても実践できんよ.. 」とか「ああ、これやった方がよかったな。けど足取りが重たいなぁ」などなど
(なので僕は5分以内に実践できることはすぐにその場で取り掛かるようにしています。)
そういうトラフィックって、『日常的に触れている情報が多すぎる』のが1つの原因だと思うんですよね。
そして、自分が小さい頃ってそんな風に考えたことも、感じたこともなかったなとも思います。
能天気だった性格が少しだけ小賢しくなったと言われたらそれまでですが
今の世の中、本当に情報が多すぎるというのと、情報を獲得しやすすぎるのではないかなと。
触れれる情報が多すぎるが故に迷子になってしまったり、自責の念に駆られたりするくらいなら身の丈に合った情報量を見定めて、それらと付き合っていくという生き方の方がいいのではないかな。
そう感じたので、今回の記事を書いてみました。
次回はぼくが試している具体的な対策について投稿する予定です。
もしよかったら併せて読んでみてください。
考えを「加工」する
ちょっと蛇足ですが、ぼくは情報をそのまま横に流したり何となく実践するだけでは単なる「模倣」で「劣化コピー」になりかねないと思っています。
というのも
発案者やその思想の主は、様々な試行錯誤や実体験を元に情報を発信していることが多いです。
その経験をなくして、果たして同様のことを等しいクオリティで実現できるのでしょうか。
どうせなら、その仕組みを抽象化して他分野に応用をきかせたり、発展させればもっと素敵な形になるのでは..?
けれどきっと、「考える」ことには集中できる時間が必要です。
日々新しい情報が入ってきて、それらを選別・分別・記憶することに追われてしまったら一つ一つの事柄について考えることは難しいと思います。
少なくともぼくはゆっくりでも噛み砕いて自分の血肉にしたいタイプなので、情報の波にのまれることは非常に多かったです 笑
これってとても苦しいんですよね..
その為、インプットする情報はある程度制限をかけた方がよいのかなと思った次第です。
(ネットの大海原なら、ぼくと同じタイプの人もいるんじゃないかな。。)
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